【ミンユンギ治療センター】自閉スペクトラム症は「治療」するものではないのに何故「治療」?

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BTSのSUGA(ミン・ユンギ)さんが、ソウルのセブランス病院に50億ウォンを寄付し、病院と協力して「ミンユンギ治療センター」を立ち上げたことは、皆さんニュース等でご存知かと思います。

このニュースに関して、日本の当事者や支援者、あるいは自閉スペクトラム症について知る人々から「自閉スペクトラム症の“治療”」という言葉に、疑問の声があがりました。

それは当然です。自閉スペクトラム症とは、病気では無く、ましてや「治療」するものではないからです。
それでは、韓国における「自閉スペクトラム症の“治療”」とは何ぞや?という疑問がわきますよね。
この記事では、その「治療」──「ミンユンギ治療センター」の「治療」という用語について、解説していきたいと思います。

目次

「自閉スペクトラム症の“治療”」という表現について

どういう文脈で「治療」という言葉は使われたの?

先ずは、「ミンユンギ治療センター」に関するニュースを見てみましょう。

以下は、韓国のメディア「The Butter」の記事です。

슈가는 지난해 11월부터 소아정신과 분야 권위자인 천근아 세브란스병원 소아정신과 교수와 수차례 만남을 통해 자폐스펙트럼장애 환자에게 생애주기에 맞는 맞춤형 치료가 필요하다는 점을 알게 됐다.

(引用元:The Butter 2025.6.23

【和訳】シュガは 昨年11月から、小児精神科分野の権威であるチョン・ギュンア セブランス病院小児精神科教授と何度も会い、自閉症スペクトラム障害患者のライフサイクルに合わせた オーダーメイドの治療が必要であることを知りました。

このように、実際に「환자(患者)」や「치료(治療)」という言葉が出てきますね。

日本で報じられたニュースも、元が「치료」ですので、そのまま「治療」と訳しています。
それでは、同じ記事ですが、続けて 以下を読んでいきましょう。

슈가와 천근아 교수는 지난해 말부터 올해 초까지 치료센터 건립과 자폐스펙트럼장애 소아청소년 환자들을 위한 음악을 활용한 사회성 훈련에 대해 논의했다.

(引用元:The Butter 2025.6.23

【和訳】シュガとチョン・ギュンア教授は、昨年末から今年初めまで、治療センターの設立と自閉症スペクトラム障害の小児・青少年患者のための 音楽を活用した社会性訓練について話し合いました。

ここで「사회성 훈련(社会性訓練)」という言葉が出てきます。
(「社会性」や「訓練」という言葉や概念についても、問題となっています。ここでは触れず、最後の項で解説します。)

どうやら、想像していた「治療」というものとは、違うみたいだぞ?と、なってきましたね。

さらに、見ていきましょう。

이를 바탕으로 기존 사회성 훈련 프로그램에 음악적 콘텐츠를 접목한 사회성 집단 프로그램인 ‘마인드(MIND, Music·Interaction·Network·Diversity)’ 프로그램을 개발했다.

(引用元:The Butter 2025.6.23

【和訳】これをもとに、既存の社会性訓練プログラムに音楽的なコンテンツを取り入れた 社会性集団プログラムである「マインド(MIND)」(Music-Interaction-Network-Diversity)プログラムを開発しました。

마인드 프로그램은 ‘음악을 통한 상호작용과 감각적 경험을 높이고, 사회적 관계 형성과 소통하는 기회를 접하며, 공동체를 통해 자연스럽게 관계를 맺는 과정을 배우고, 개별적 다양성을 존중하며 함께 어울리는 사회를 배운다’는 의미를 담고 있다.

(引用元:The Butter 2025.6.23

【和訳】マインドプログラムは、「音楽を通じた相互作用と感覚的な経験を高め、社会的な関係形成とコミュニケーションの機会に触れ、共同体を通じて自然に関係を結ぶ過程を学び、個々の多様性を尊重し、共に生きる社会を学ぶ」という意味が込められています。

つまり「マインド(MIND)プログラム」のアウトラインは、

  • Music(音楽)感覚的な経験、音楽をツールとして交流する
  • Interaction(相互作用)音楽を通じた交流で、お互いに良い影響が生まれていく
  • Network(繋がり)友達や先生とのコミュニケーション
  • Diversity(多様性)個々の多様性を尊重し、共に生きる

ということを、目的として開発されています。

ここで、皆さんにも、

あれ?これは「治療」という概念ではないよね?

と、別の疑問が生まれたのではないでしょうか。

このプログラムの内容を知った人々からは、「治療」という「直訳」をやめて、「(日本語で言うところの)療育」「発達支援」と訳すべきなのではないか、という声もあがっていました。

「日本自閉症協会」が出した見解

一般社団法人「日本自閉症協会」へも、日本の報道に見られる「自閉スペクトラム症の“治療”」という表現に対し、それを協会は支持するのか、という意見が寄せられていました。

それに対して、同協会は、見解を出しています。

以下、引用します。

ASDは治すものではありません。
日本自閉症協会はHappy with Autism (自閉スペクトラム症のまま幸せになろう)と掲げています。

(中略)

同センターが行おうとしていることは、「ASDを治す」ということではなく、言語療法、心理療法、行動療法、音楽療法などの統合的なサービスを提供し、ASDの子どもに長期にわたる多分野にわたるケアの提供です。

(中略)

記事の見出しは、「自閉スペクトラム症の子どもや青少年のためのセンター」という表現のほうが誤解を招かないと考えます。

(引用元:一般社団法人「日本自閉症協会」 2025.7.3【広報部見解】BTSのSUGAさんの寄付を報じた記事の表現について

続きまして、「治療」という言葉についての見解です。

また、「治療」という言葉ですが、日本においてASD児を支援するための各種の療法を医療機関で行う場合には「療法」という言葉が多く使用されています。しかし、治す行為ではないので語感が合いませんが病院によってはそれを「治療」としていました。

よって、これら療法を行うことを「治療」と表現しても不適切とはいえないと考えます。

(引用元:一般社団法人「日本自閉症協会」 2025.7.3【広報部見解】BTSのSUGAさんの寄付を報じた記事の表現について

これをまとめますと、

  • 「ミンユンギ治療センター」のプログラムは「ASを“治す”」ことではなく、「様々なケアの提供」である。
  • 日本では「療法」と呼ばれるが、それもまた「療」の文字が入っているので、言葉としては合わない、という点で同じであろう。
  • 「自閉スペクトラム症の子どもや青少年のためのセンター」等の表現のほうが、誤解を招かないと思う。

ということです。

韓国における「치료(治療)」という用語について

このニュースを通して解ったことは、韓国でいうところの「치료(治療)」という用語は、病気の治療の他にも、「~療法」であったり、「発達支援」の意味合いでも使われており、その概念は文脈によって違う、ということでした。

また、(日本でも)病院によっては「治療」という用語が用いられる場合もある、と 日本自閉症協会が述べていた通り、日本でも 言葉による混乱はあります。

それでは、韓国語での「치료(治療)」という用語の表現について、セブランス病院以外の文献も見てみたいと思います。

プレイセラピーは「놀이 치료(遊び治療)」

ソウル大学病院のホームページより、プレイセラピーについて書かれたところを 引用します。

심리적인 갈등이 생기고, 해소되지 않은 갈등은 계속 그 사람의 정서 및 행동에 영향을 주며 정서 및 행동상의 문제로 진전되기도 한다.

이러한 인간 내면의 갈등과 무의식과 관련된 문제를 다루는 것이 정신 치료다.

하지만 아동은 언어적 표현이 미숙하여 대화보다 놀이를 통해 자신의 감정을 표현하고 과거 일을 설명하면서 갈등을 해결해 나갈 수 있다. 따라서 아동의 정신 치료에서 놀이는 필수적이다.

놀이 치료치료자가 어떤 이론 배경을 가지고 접근을 하는가에 따라서 다양한 종류가 있다.

(引用元:SNUH「놀이 치료 [play psychotherapy]」

心理的な葛藤が生じて、その解消されていない葛藤は、引き続きその人の感情や行動に影響を与え続け、感情的および行動上の問題に発展する可能性があります。

このような、人間内面の葛藤と、無意識に関連する問題を扱うのが、心理療法(精神治療)です。
しかし、子どもは言葉での表現が未熟なため、会話よりも遊びを通じて自分の感情を表現し、過去の出来事を説明することで葛藤を解決していくことができます。

したがって、遊びは子供の心理療法(精神治療)に不可欠です。
プレイセラピー(遊び治療)には、セラピスト(治療者)がどのような理論的背景を持ってアプローチするかにより、様々な種類がある。

ここでも「치료(治療)」は、「療法」「セラピー」の意味で使われており、セラピストは「치료자(治療者)」という表現でした。

日本での「治療」は、医学的なアプローチで「治す」ということを表している印象がありますが、韓国語での「치료(治療)」は、セラピーの概念を含み、実際には、より広範な意味で使われていると言えるでしょう。

「治療」「療育」という用語・概念を考え直す

それでもやはり、「治療」という字面に、モヤモヤしますよね。
これは「치료(治療)」だけではなく、日本語の「療育」についても同じことがいえます。

なぜなら「言葉を置く」ということの大切さを、私たちは知っているからです。

例えば、「看護婦」「保母」という用語は「看護師」「保育士」になりました。
夫を「主人」と呼ぶことは止め、「パートナー」「配偶者様」に変わってきています。

そこには、性差別や、家父長制の問題があったからでしたよね。


「療」にも、やはり「病気や傷をなおす・苦痛などを やわらげる」といった意味合いがあります。
「治療」と同じく、「療育」という字面も「なおし、そだてる」となりますので、あまりよろしくないですよね。

そして 「療育」そのものに関しても、是非が問われています。(日本だけではありません。)
これについては、次項で解説します。

韓国でも「치료(治療)」という表現について、議論となっている

「治療」という表現に対して異を唱える声は、当然ながら 韓国にも、ずっと前からあります。

こちらは、(ASを含むニューロマイノリティではなく、聴覚障害者のケースを通して)「治療」という言葉、その考え方に疑問を呈している文章です。(ですから、こちらでの「치료(治療)」は「個人モデル」の文脈で使われています。)

カリフォルニア大学LA校 特殊教育科(2009年当時)のキム・ヒョソン教授『特殊教育について学ぶ – 治療と教育の違い』より抜粋します。

청각장애인들 간에는 서로의 의사소통의 수단으로 손과 몸동작을 통해 대화를 하는 수화(American Sign Language)라는 ‘언어’가 있다. 수화도 언어로서의 조건을 만족시키는 독특한 문법체계를 갖추고 있는 공인된 언어다.

(引用元:KOREA TIMES 2009.3.2

【和訳】聴覚障害者の間には、お互いのコミュニケーションの手段として、手と身振り手振りで会話をする手話(American Sign Language)という「言語」があります。
手話も、言語としての条件を満たす独特の文法体系を備え、公認された言語です。

현재 많은 대학에서 수화를 제2 외국어로 인정, 대학생들이 선택해 들을 수 있도록 하고 있을 정도다.
청각장애인 단체의 주장은 미국 내에 소수민족들이 영어가 아닌 자신들만의 외국어로 의사소통을 하듯이 자신들도 영어가 아닌 수화언어를 사용하는 소수 민족일뿐 ‘장애인’이 아니라는 것이다.

(引用元:KOREA TIMES 2009.3.2

【和訳】現在、多くの大学で手話を第2外国語として認め、大学生が選択できるようにしているほどです。
聴覚障害者団体の主張は、米国内の少数民族が英語ではなく独自の外国語でコミュニケーションをとるように、彼らも英語ではなく手話言語を使う少数民族であるだけで、「障害者」ではないということなのです。

そして、キム・ヒョソン教授は、両親が無理に人工内耳に依存し、手話ではなく口で発声させる口語を強要する、という問題に触れ、「“聞こえる”人として“治療”しなければならないという、頑固な一般人の考えこそが、彼らを“障害者”にしている」と警鐘を鳴らしています。

비 장애아동들도 처음부터 모든 것을 잘하는 것이 아니다.
우리는 그들이 못하는 것을 가르친다고 하지 치료한다고 하지 않는다.

장애를 가진 아동들도 ‘치료’가 아니라 그들이 모르는 새로운 것을 가르친다는 생각으로 우리의 시각을 바꾸고 먼저 그들이 있는 모습 그대로 인정하고 포용할 수 없을까?
치료라는 말과 교육이란 말에는 이렇게 장애인을 바라보는 근본적인 차이를 가지고 있다.

(引用元:KOREA TIMES 2009.3.2

【和訳】非障害の子どもたちも、最初から全てが上手なわけではありません。
私たちは彼らができないことを教えるのであって、治療とは言いません。
障害を持つ子どもたちも「治療」ではなく、彼らが知らない新しいことを教えるという考えで、私たちの視点を変え、まず彼らを ありのままの姿で認め、受け入れることができないでしょうか。
治療という言葉と 教育という言葉には、このように障害者を見る根本的な違いがあります。

キム・ヒョソン教授の仰ることは、他の「障害」でカテゴライズされる方々にとっても同じで、人権に関わる重要な考え方であるということが、分かると思います。

日本でも「ニューロダイバーシティ」の概念が広がってきている

日本でも、近年「手話話者」「ろう文化圏の人々」という表現に代わってきていますね。

また、自閉スペクトラム症についても、「自閉の民」「自閉文化」というような、「障害」ではなく ニューロダイバーシティ(神経多様性)というとらえ方が 広がってきました。

ここで「村中直人と自閉文化を語る会」を紹介したいと思います。

『ニューロダイバーシティの教科書』著者であり、発達障害サポーター’s スクールや、Neurodiversity at Work(株)の代表をつとめる 臨床心理士の村中直人さんと、「自閉文化圏」のメンバーの方々が「自閉文化」について語るスペースです。

様々な「自閉文化」についてのトークが面白く、また、支援者や当事者の方にとっても、発見があったり、「あるある!」と共感したり、そんな場になるのではないか、と思います。

「自閉文化」の中にある「多様性」への気付きも得られると思います。

X内を「#(ハッシュタグ)自閉文化を語る会」 で検索しますと、様々なトピックのアーカイブがありますので、ぜひ聴いてみてください。

「ニューロダイバーシティ」と「療育」に関する批判

「ニューロダイバーシティ」の話が出たところで、話を「療育」に戻したいと思います。

「療育」そのものに関しても 是非がある、また「社会性」や「訓練」といった言葉には 問題がある、とお伝えしましたが、あらためて ここで お話ししていきたいと思います。

実は、「ニューロダイバーシティ」にも、そして「療育」にも、様々な批判があります。

「療育」への批判

「療育」については、定義や質が様々なことにも起因し、批判が多くあります。

有名なのがABA ─「Applied Behavior Analysis/応用行動分析(学)」と呼ばれるものです。

アメリカの心理学者、B. F. スキナーの「行動分析学」に基づいた学問で、「福祉」「学校教育」「企業」など様々な領域で、研究や実践が行われています。

行動分析学に基づいて、好ましい行動は増やし、好ましくない行動は減らしていく、という学問のため、「好ましくない」の標的になる行動の定義について「慎重に」との指摘があります。

さらに、質が伴わないのに「ABA」を名乗っている所があったりもして、これも問題になっています。
また、(英語圏で)応用行動分析にさらされた自閉スペクトラム症の方の「PTSD症状の増加」というデータがあり、それについての批判もあります。

親に対してABAを推奨する「圧力」がある、という指摘もあります。

しかしまた、「ニューロダイバーシティを尊重するABA」といった 本人主体のサポートであったり、周囲の人が本人をサポートできるような支援は 実践されており、それこそが本来のABAといえるのではないか、と思います。

「社会性」という概念や「訓練」の問題

「自閉スペクトラム症」について「紹介される」時、しばしば「社会性の障害」「コミュニケーションの障害」などといわれますが、これは誤りです。

「社会」は「ニューロティピカル(多数派)」だけのものではなく、もっと言うならば、「多数派」の人々も多様です。
それから「コミュニケーション」とは「双方向」で行われるものであり、「どちらかだけ」が「障害」ということは、あり得ないのです。

また、「ニューロティピカル(多数派)」文化の行動に近づける「訓練」をする、というやり方も、批判をあびてきました。

例えば「アイコンタクトができるように」とか、「手をひらひらさせる常道運動をやめさせる」などがそうです。
大人になると、職場では「アイコンタクト」無しでも仕事を回していますし、「手をひらひら」させても誰にも迷惑はかかりません。

「手をひらひらさせるのを“やめさせる”」にしても、無理にやめさせることはせず、その行動の持つ意味を理解したうえで、「代替行動をうながす」といったことは行われています。
それが「コミュニケーションの手段」である時もあるため、それには 細心の注意を払う必要があります。

(※「手をひらひらさせる行動」は、いわゆる「ニューロティピカル」とカテゴライズされるお子さんにも見られることがあります。)

「社会性」、「訓練」といった概念は、ニューロダイバーシティの観点から再評価されるべきといわれています。

「ニューロダイバーシティ運動」に対する批判

一方で、「ニューロダイバーシティ」もまた、批判されてきた概念です。

「ニューロダイバーシティ」概念は、「ニューロマイノリティ」といわれる人々だけではなく、「多数派」も含めて「みんなが多様」といったものです「全員」がそこに含まれます。

それゆえに、「単なる脳の違い」と言うことが「必要な人への支援を、妨げるのではないか?」という批判をあびてきました。

また、「ニューロダイバーシティ」という言葉が、本来とは違った意味で使われることの問題もあります。
「“発達障害の人たち”は○○に秀でている」という、主語の大きな解釈です。
これは裏を返せば、(これはもちろん「定型発達」とカテゴライズされる人もです)「何かに秀でていない人」への排除の論理に繋がりかねません。

双方の「批判」は、乗り越えられるもの

ただ、「批判」というのは、むしろ必要で、ここにより良い社会を作っていくヒントがあり、そのおかげで、どんどん進化していくものだと思いますし、そうなってきました。

「多数派」「少数派」を主語にすると、そこに分断が生まれてしまいますが、カテゴライズすることなく、みんなで対話していくことが大切だと思います。

大勢の人で対話する (イメージ画像) (出典:Free素材 illustAC)
大勢の人で対話する (イメージ画像) (出典:Free素材 illustAC)

先ほど、批判の的になっていた「ニューロダイバーシティの概念は、必要な人への支援を、妨げるのでは?」という考え方についてですが、むしろ逆で、
ニューロダイバーシティの考え方でいうと、「全員が支援の対象者」です。

筆者は、実際に、付き添い登校という形で、学校現場を直に見る機会がありました。
「ニューロマイノリティ」の子どもたちだけではなく、「定型発達─ニューロティピカル」とカテゴライズされる子どもたちにとっても、学校とは 過酷な場だな、ということを体感しましたので、これは「多数派」「少数派」関係なく、議論が可能です。

元リタリコの野口さんが「全員に特別支援教育を」と提唱されていたのを思い出しました。

個々に支援が可能なシステムを構築していくと、それが可能となります。

ユンギさんとセブランス病院による音楽支援プログラム、「MIND」の「D」は、「Diversity(多様性)」の「D」でしたね!

今私たちは、「変換期」にいるのだと思います。

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