オッペンハイマーの生涯・人物像と、彼の後悔とは?「物理学者は罪を知った これは物理学者が失うことのできない知識である」

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映画「オッペンハイマー」が、アメリカで大ヒットし、話題となっている一方、日本では、いまだ公開は未定となっています。

【追記】映画「オッペンハイマー」は、2024年3月29日(金)公開が決まりました。

いよいよ日本での公開!
映画を観に行く前の予習にも、どうぞ。

映画は、原子爆弾を生み出してしまった物理学者の苦悩が描かれています。ドキュメンタリーではないものの、オッペンハイマーは、実在する人物です。

実際のオッペンハイマーとは、どういう人なのでしょうか?オッペンハイマーの生涯、そして彼の残された言葉から、人物像を追いました。

目次

オッペンハイマーの生涯

オッペンハイマーは、アメリカ合衆国の理論物理学者です。

理論物理学の広範な領域にわたって大きな業績を上げましたが、第二次世界大戦中に、ロスアラモス国立研究所の初代所長となり、「マンハッタン計画」を主導、原子爆弾開発の指導者的役割を果たしたため、「原爆の父」と言われています。

ジュリアス・ロバート・オッペンハイマー(J. Robert Oppenheimer)

1904年4月22日-1967年2月18日

1904年 ニューヨークで生まれました。

父:ドイツ系ユダヤ人移民の ユリウス・S・オッペンハイマー(起業家)

母:ドイツ・東欧系ユダヤ人のエラ・フリードマン(画家)

弟:フランク・オッペンハイマー(弟も、物理学者です。)

妻:キティー・オッペンハイマー(ドイツ系アメリカ人。生物学者・植物学者)

オッペンハイマーの生い立ち

1904年4月22日 ニューヨークで生まれる。

1911年〜1921年 幼少期から、鉱物や地質学に興味を持ち、数学や化学、数ヶ国の言語(最終的には6カ国語)を学んでいた。

読書も大好きだったそうです!
ハイキング、鉱石採取も好きで、セーリングと乗馬が得意だったそうです。

1922年~ ハーバード大学では、化学を専攻。ハーバード大学は3年で卒業後、イギリスのケンブリッジ大学に留学し、研究所で物理学・化学を学ぶ。

(実験物理学が発展していた)ケンブリッジから、(理論物理学が発展していた)ゲッティンゲン大学へ移籍。

ハーバード大学を3年で卒業、博士号はわずが23歳で取得!
貪欲に物理学を学んでいたのが良く解ります。

宇宙物理学領域の研究から、原爆開発へ

1929年 カリフォルニア大学(バークレー校)、カリフォルニア工科大学の助教授となり、物理学を教える。

学生さんたちからは、「オッピー」と呼ばれていたよ。

1938年〜1939年 宇宙物理学領域で、中性子星やブラックホールについての先駆的な研究を行っていた。
後にブラックホールとなる中性子星に関する論文を発表。

1939年9月 第二次世界大戦が勃発

1940年 キティと結婚

(1942年 原子爆弾開発を目指す極秘プロジェクト「マンハッタン計画」が開始される。)

1943年 オッペンハイマーはロスアラモス国立研究所の初代所長に任命され、原爆製造研究チームを主導。このチームは、世界で最初の原爆を開発した。

1945年7月、この原爆は、ニューメキシコ州での核実験(「トリニティ実験」)で、地元に暮らす人々に被害をもたらしました。
そのわずか3週間後の8月6日、大日本帝国の広島に、8月9日には長崎に投下され、ふたつの都市は、徹底的に破壊され、多くの人々が犠牲になりました。
そして、放射能が長きにわたり、市民の人々を苦しめることになりました。

戦後の水爆反対運動へ

1945年10月 ロスアラモスを去る。

オッペンハイマーは、2度と核兵器の開発を手がけることはなかった

1947年~1966年 プリンストン高等研究所 所長を務める。若い物理学者たちの指導・研究環境の改善に尽力する。

1948年 湯川秀樹が、1949年には朝永振一郎が、高等研の客員教授として招かれる。

高等研には、多くの日本人研究者が招かれています。

他にも、南部陽一郎、内山龍雄、西島和彦ら多くの日本人物理学研究者が招かれ、その数は72人にのぼります。(参考:日経サイエンス

湯川秀樹は1949年に、朝永振一郎は1965年に、ノーベル賞を受賞します。
これらのノーベル賞受賞は、オッペンハイマーの推薦によるところが多かったとされています。

オッペンハイマーは「物理学者は罪を知った。これは物理学者が失うことのできない知識である」と言い、湯川秀樹は核兵器を「絶対悪」であるとしてその廃絶を唱えました。

オッペンハイマーは、原爆による広島・長崎の惨状を知った後に、核兵器の国際的な管理を呼びかけ、水爆開発に強く反対します。

水爆反対が原因でオッペンハイマーは、冷戦中の「赤狩り」の標的にされてしまいます。

実際にはスパイ行為は確認されなかったにもかかわらず、機密情報の取り扱い権限を剥奪され、休職処分(事実上の公職追放)となっています。私生活も常にFBIの監視下におかれ、抑圧され続けました。

FBIは、オッペンハイマーの電話を盗聴までしていたそうです。
1954年 オッペンハイマーを査問する聴聞会は、実に4週間に渡って行われ、公職から追放されてしまいます。

(1954年 アメリカの水爆実験が明らかになり、国際的な反核運動が高まっていく。)

(1957年 国際原子力委員会(IAEA)が設立される。)

1959年 アイゼンハワー大統領は、水爆開発の強力な推進者であったストラウス氏を商務長官に指名する。
上院商業委員会の指名承認公聴会で、科学者のデービッド・ヒルが、ストラウスが復讐のためにオッペンハイマーに反対する運動をした、と証言、最終的に、本会議でストラウス氏の閣僚入りは却下された。

映画「オッペンハイマー」では、この上院公聴会の様子が出てきますが、本物の当時の公開記録が、ほぼそのまま再現されています。

ストラウスの指名を否決したところは原作にはありません。
実際の上院公聴会の記録から、ノーラン監督が掘り起こしたものです。

1960年 妻のキティーと共に来日。1947年に水難事故で他界した、バークレー時代の弟子・日下周一の弔問に訪れた。出迎えた周一の両親、日下清方・つや夫妻に会い、弔意を表している。

1961年 支持者により、オッペンハイマーの名誉を回復させようという動きが出始める。(この頃は、ケネディ政権)

1963年 「エンリコ・フェルミ賞」受賞。ジョンソン大統領から賞を授与される。

エンリコ・フェルミ賞(Enrico Fermi Award)は、アメリカの物理学の権威ある賞。米国エネルギー省が主催。科学、技術、原子力の分野で貢献した人に送られる。

アメリカ政府はエンリコ・フェルミ賞の授与で、オッペンハイマーに対して行われた処分の非を認め、彼の名誉回復を図ったといわれています。
この時、賞金5万ドル(現在の価値に換算すると、約50万ドル)も授与されています。

公職追放の間違いを認めたことは良かったのですが、
この間違いを「エンリコ・フェルミ賞の授与」で「埋め合わせ」ようとするのは、狡猾な気がします…

1965年 咽頭がんの診断を受け、手術放射線療法と化学療法を続けた。

1967年2月18日 ニュージャージー州の自宅で、62歳で他界。

2022年、米エネルギー省のグランホルム長官が、オッペンハイマーを公職から追放した1954年の処分は「偏見に基づく不公正な手続きであった」として取り消し、公式に謝罪しました。

68年を経て(オッペンハイマーが他界してからは、55年を経て)の、この処分撤回について、グランホルム長官は「歴史の記録を正す責任がある」と説明しています。

映画「オッペンハイマー」には、実際のオッペンハイマーと異なるところもある
(映画のネタバレあり)

この項目には、映画のネタバレが含まれます。

「毒りんご」のシーン

映画「オッペンハイマー」の中で、事実と大きく異なる箇所があると、オッペンハイマーの実の孫であるチャールズ・オッペンハイマーが明かしています。

それはオッペンハイマーの学生時代を描いたワンシーンでした。

ケンブリッジ大学の大学生だったオッペンハイマーが「パワハラ教授」パトリック・ブラケットのりんごに、彼のすきを見て、青酸カリを入れる、というシーン。そして、その後 りんごを捨て、殺人を回避するシーンも描かれていました。

孫のチャールズは、うったえます。

私が一番気に入らないのは、『アメリカン・プロメテウス』(原作本)で問題になった、この毒リンゴへの言及だ。

『アメリカン・プロメテウス』を注意深く読むと、著者は「実際に起こったかどうかはわからない」と言っている。彼が誰かを殺そうとしたという記録はない。これは本当に深刻な告発であり、歴史修正だ。

TIME 2023.6.25 より 和訳

現に、ロバート・オッペンハイマーの敵にも友人にも、生前にそれを聞いて真実だと思った人は一人もいない、といいます。

孫であるチャールズは、それは「ノーラン監督のせいではない」と言っています。

チャールズ「(映画は)脚色された歴史の表現としては、本当にほぼ正確だった。同意できない部分もあるが、ノーランのせいではない。」

TIME 2023.6.25 より 和訳

チャールズは、映画なので(少しドラマチックにしたりなどの)ある程度の脚色については理解していると言います。

でも「毒りんご」の記述については、そのような証拠が無いのであれば、冤罪ですものね…

一方、ノーランは、(本の著者である)カイ・バードを通して、チャールズを表敬訪問したといいます。

チャールズは、「『アメリカン・プロメテウス』(原作本)は本当にいい作品だと思う。私はただ、その一部分に不満があっただけなんだ。」とも言っています。

映画「オッペンハイマー」は、原作である伝記『オッペンハイマー「原爆の父」と呼ばれた男の栄光と悲劇 』を元にしています。

原作本の原題は『American Prometheus: The Triumph and Tragedy of J. Robert Oppenheimer』です。
(直訳すると「アメリカン プロメテウス:J・ロバート・オッペンハイマーの勝利と悲劇」)

タイトルは、原爆を可能にした物理学者をプロメテウスに例えたことから。
(ギリシア神話で、プロメテウスは天界から火を盗み、人間にもたらす英雄となりますが、傲慢の罪で ゼウスの怒りをかってしまう…そんな逸話があります。)

カイ・バード、マーティン・J・シャーウィンの共著です。
(カイ・バードは歴史家、作家。 マーティン・J・シャーウィンはアメリカ史と核史の教授、学者。)

25年の歳月をかけて執筆、2005年に出版され、2006年のピューリッツァー賞伝記・自伝賞をはじめ、数々の賞を受賞しました。

原作本が気になったかたへ

『オッペンハイマー「原爆の父」と呼ばれた男の栄光と悲劇 』訳書は上下巻あります。
読みたいかたは、ブックオフAmazonで中古出品を見る、もしくは お住まいの地域の図書館にあるか、調べてみてくださいね。

オッペンハイマーは「クソ野郎」と言う人ではない

映画の中で、キリアン・マーフィ(オッペンハイマー役)が部屋に入ってきて、誰かのことを「クソ野郎」と言うシーンがあります。
チャールズが、帰って それを父(オッペンハイマーの実の息子さん)に話すと、父は愕然としたといいます。

実際のロバート・オッペンハイマーは決して、そのような悪態をつかなかったし、とてもフォーマルな人だったということです。

チャールズは、お父さんに「まあ、これは脚色だから」と説明しています。

孫のチャールズと 映画「オッペンハイマー」

チャールズは、撮影現場に何度か見学に訪れていますが、制作にはノータッチです。

2度ほど撮影現場を訪れており、その時 ノーラン監督が、驚くほどの熱量で現場に取り組んでいるのを見たと言い、会話も弾んだといいます。

チャールズはTIME誌のインタビューで、こう話していました。

伝記や評論家が私の祖父について語るとき、(いつも)彼らには何かが欠けているような気がします。

しかし、映画を見ているうちに、私はそれを受け入れ、好きになっている自分に気づきました。
説得力のあるストーリーだと思ったし、本当に魅力的なアートとして受け止めることができたのです。

その反応が(自分でも)本当に嬉しかったです。 予想外でした。

TIME 2023.6.25 より 和訳

※映画のネタバレが含まれるのは、ここまでです。

オッペンハイマーのドキュメンタリー映画『The day after Trinity』

ドキュメンタリー映画『The day after Trinity』
(出典:amazon より)
ドキュメンタリー映画『The day after Trinity』 (出典:amazon より)

オッペンハイマーのドキュメンタリー映画もあります。

映画のタイトルは、ドキュメンタリーの結末近くで見られるインタビューに由来します。
オッペンハイマーは、ロバート・F・ケネディ上院議員がリンドン・ジョンソン大統領に核兵器の拡散を止めるための協議を始めるよう働きかけたことについて、20年遅かったと答えています。
彼はトリニティの翌日に実行すべきだったとも、話します。

オッペンハイマーの弟のフランクが、この映画の中で、「ロバート(オッペンハイマー)は現実世界に使うことのできない兵器を見せて、戦争を無意味にしようと考えており、人々が新兵器の破壊力を目の当たりにしても、新兵器を今までの通常兵器と同じように扱ってしまったと、絶望していたと語っています。

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バークレー校時代、オッピーは、どんな先生だったの?

カリフォルニア大学バークレー校時代のオッペンハイマーの教え子で、後の実験物理学者ロバート・ウィルソンへのインタビューから、当時、オッペンハイマーがどんな先生だったかが見えてきます。

オッペンハイマーは、学生たちから「オッピー」と呼ばれていました。

オッピーは、どんな先生だったの?

どちらかというと、わかりにくい教師でした。
授業の進め方が早過ぎてついていけないんです。

ただ、それなのに不思議な魅力があり、解らないなりに感じるところがあって、私は(オッピーの)授業を取り続けました。

オッピーのスタイル、高尚な流儀に何かを感じたんです。

ヒロシマ・ナガサキのまえに オッペンハイマーと原子爆弾 より

オッピーは、頭の回転がおそろしく速く、物腰に気品があった、とロバート・ウィルソンは振り返っています。

戦争中のオッペンハイマーは、どんな人だった?

ロバート・ウィルソンは、その後オッペンハイマーから ロスアラモスに招聘されており、長きにわたり、オッペンハイマーを見てきました。

オッペンハイマーは、「戦争中」、「変わってしまった」と、ロバート・ウィルソンは明かします。

戦争中、彼は変わりました。
知的に自由奔放だった彼が…

バークレーでは、急進的として知られていたオッペンハイマーが、
すっかり熱心な戦争支持者になってしまったんです。

ロバート・ウィルソンは、軍のグローヴス将軍の要請に協力したオッペンハイマーと、口論になることもあったといいます。

しかし、ロバート・ウィルソン自身も、戦争に加担してしまったことを、のちに後悔しています。
ドイツが降伏した時に 立ち止まって考えるべきだったし、ロスアラモスから引き揚げるべきだった、なぜそうしなかったのか、自分でも理解できない、といいます。

全体が、そんな雰囲気ではなかった、と振り返っています。

「戦争」が人間を「変えてしまう」こと、
集団心理にのまれていくことの怖さがよく解ります

オッペンハイマーの「名言」 / 他の物理学者・評論家の見解

「物理学者は罪を知った これは物理学者が失うことのできない知識である」

オッペンハイマーは物理学者は罪を知った。これは物理学者が失うことのできない知識であるという言葉を残していました。
(参考:筑摩書房「ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者」藤永 茂 著

1896年、最初にアントワーヌ・アンリ・ベクレルが放射線を発見し、マリー・キュリー(「キュリー夫人」で有名な)の研究へとつながり…物理学者たちは研究を続けて繋げてきたはずだが…

「戦争」の中で、恐ろしい化学兵器を生み出してしまった。今から「核のない世界」に引き返すことはできない…
そんな彼の後悔が凝縮された言葉だと思います。

何より「罪」という言葉の重さに、彼らの贖罪が表れている、そう感じました。

「我は死なり、世界の破壊者なり」

オッペンハイマーは、晩年、テレビインタビューでこう話しています。

私たちは世界が以前と同じではなくなることを知っていました。

ある人は笑い、
ある人は泣きました。
ほとんどの人は、沈黙していました。
私はヒンドゥー教の聖典『バガヴァッド・ギーター』の一節を思い出しました。

ヴィシュヌ神は、王子に義務を果たすべきと説得するために 多腕の姿になり、こう言ったのです。
「我は死なり、世界の破壊者なり」

おそらく誰もが何らかの形でそう思ったと思います。

「バガヴァッド・ギーター」は、ヒンドゥー教の聖典のひとつで、神クリシュナと、王子アルジュナの物語が描かれています。クリシュナは、戦意喪失した王子を説得するため、「我は死なり、世界の破壊者なり」と鼓舞する一節があります。(※クリシュナとは、ヴィシュヌ神の第8の化身です。)

オッペンハイマーは、クリシュナを自分に重ね 核兵器開発を後悔していたのか、それともアルジュナを自分に重ね いつの間にか体制に取り込まれ 変わってしまった自分を悔いていたのか…

このインタビューは、オッペンハイマーが亡くなる2年前のことでした。

物理学そのものも「科学では解決できない新たな問題を生み出す歴史でもあった」とうったえた 唐木順三

文芸評論家 唐木順三は、科学の発展は、人間の暮らしを豊かにしてきた一方で、「科学では解決できない新たな問題」を生み出してきたといいます。

その「絶対悪」核兵器を生んだ物理学そのもの、科学の発展そのものが文明や人類を破壊しうるという認識が科学者の側に足りない、と厳しく指摘していました。

唐木順三の著作『「科学者の社会的責任」についての覚え書』(1980年)は、彼の遺作となりました。
この本は、唐木がパグウォッシュ会議に触発されて書かれたもので、会議に対しては一定の評価をしています。

パグウォッシュ会議とは、世界の科学者が集い、核兵器廃絶・平和の希求を議論する場です。

日本パグウォッシュ会議も、湯川秀樹、朝永振一郎ら物理学者が、1957年に立ち上げました。

藤永 茂「原爆を生んだ母体は私たち、人間である」「物理学は学ぶに値する学問である」

オッペンハイマーは、「原爆の父」とされていますよね。
しかし、日本・カナダの物理化学者でもあり、評論家でもある藤永 茂さんは、

これは、物理学者リーゼ・マイトナーを「原爆の母」と呼ぶのと同じく愚にもつかぬ事だ。

との見解を示しています。

【リーゼ・マイトナー(Lise Meitner)とは?】

リーゼ・マイトナー(1878年11月7日-1968年10月27日)は、オーストリア出身の物理学者です。

放射線・核物理学を研究。

ドイツの化学者・物理学者オットー・ハーンが「原子核分裂」を発見。これには、共同研究者リーゼ・マイトナーの協力によるところが大きいといわれています。

しかし、2人は「核分裂の原理」を発見しただけで、核兵器開発に反対、ナチス政府には協力しませんでした。

1945年8月6日、実際に投下されるまで原爆についてまったく知らなかったマイトナーの元には、取材が殺到したのだそうです。
取材に対し「ハーンも私も、原爆の開発に、いささかなりともかかわっていません」と繰り返し答えています。


また、オッペンハイマーの名前は、レオ・シラードの名前と共に、度々「悪しき科学者」に対して「あるべき科学者の理想像」として引き出されてきました。

藤永 茂さんは、「このおきまりの明快な構図に、あるうさん臭さをかぎつけた時から、私の視野の中で原水爆問題を執拗に包みこんでいた霧が少しずつ晴れはじめたのであった。」と述べています。

藤永さんは、日本・カナダの物理化学者でもあり、「原爆を生んだ母体は私たちである。人間である。」とうったえます。

レオ・シラードは、第二次世界大戦末期には、日本への無警告の原爆投下を阻止しようとして活動したことから「良識派」と見なされることが多いが、原爆開発の開始に大きな役割を演じた物理学者・分子生物学者でもあります。

科学史研究家の間では、評価は様々です。

また、藤永さんは「物理学は学ぶに値する学問である」とも伝えています。

藤永さんの言葉は、先ほどの唐木順三の批判に対する回答でもあります。

【オッペンハイマーのステレオタイプに抗う】

オッペンハイマーの生涯に長い間こだわりつづけることによって、私は、広島、長崎をもたらしたものは私たち人間である、という簡単な答に到達した。

私にとって、これは不毛な答、責任の所在をあいまいにする答では決してなかった。
むしろ、私はこの答から私の責任を明確に把握することができた。

唐木順三の声高な非難にもはっきり答えることが出来るようになった。
「物理学を教えてよいのか、よくないのか」という切実な問題に対する答も出てきた。
物理学は学ぶに値する学問である」。 

筑摩書房「ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者」藤永 茂 著
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オッペンハイマーを通して考える「物理学」と「人間」

物理学とは、一言でいうと「ある条件の下での物体の振る舞いのメカニズム」を理解する学問で、例えば、高校の物理で扱う分野は「力学」「熱力学」「電磁気」「波動」「原子」の5つの分野で構成されています。

物理学によって見出されてきた法則で発明されたものは、私たちの生活に欠かせません。
文明発展の根底に、物理学という学問が息づいています。

映画「オッペンハイマー」は、物理学を扱うのは「人間」である ということを、「人間」オッペンハイマーを通して 私たちが考えることのできる作品と言えるでしょう。

日本では、「是非公開して欲しい」という声も多く上がっています。

【追記】映画「オッペンハイマー」は、日本でも2024年3月29日(金)公開され、現在上映中です!

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