Mrs. GREEN APPLEの『ケセラセラ』。多くの人の心に沁みいる名曲です。
歌詞の中に、聞き慣れない「ツァラトゥストラ」というフレーズに興味を持った方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。
「ツァラトゥストラ」についての解説とともに、あらためて今、楽曲『ケセラセラ』を読み解き、「ツァラトゥストラ」にまつわる「哲学」からも、考察したいと思います!

ミセスの、『ケセラセラ』楽曲創りの思いやこだわりも、併せてお伝えします。
『ケセラセラ』は、「頑張れ!」ではなく「大丈夫」と人に寄り添う曲
『ケセラセラ』は、ドラマ『日曜の夜ぐらいは…』(2023年)の主題歌です。
この曲は、大森元貴さんが、初めてドラマ主題歌を脚本から書き下ろした曲です。
当時 大森さんは、この楽曲制作について、こう話していました。
「僕は日ごろから、人は劣等感や敗北感を抱きながらもその中で生きていると感じていて、そういう人たちにフォーカスした楽曲を書きたいなって思っているんです」
(引用元:BARKS 2023.4.25)
色んな環境に置かれて耐えている人たちに、「頑張れ!」ではなく「大丈夫」と、優しく寄り添いながら、そっと背中を押してくれる…そんな歌です。
ミセスの3人も、ドラマの第9話に出演しています。
カフェのオープンを目指す主人公たち4人と、運送業者のバイトをしながら 成功を夢見るバンドマン3人(Mrs. GREEN APPLEの3人)が、エールを送り合うシーンがありました。
みね(岡山天音さん)「バンドやってんすか」
バンドマン(若井さん)「え、分かります?」
若葉(生見愛瑠さん)「分かります。どう見ても そう」
バンドマン(若井さん)「いやぁ、いい店っすね」
サチ(清野菜名さん)「嬉しい、ありがとう」
バンドマン(大森さん)「頑張ってください」
翔子(岸井ゆきのさん)「そっちもな」
バンドマン(大森さん)「頑張ります。ありがとうございます」
初めて会った人たちが励まし合うという、ほっこりする良いシーンでした。
このシーン、「ミセス出演」というサプライズ要素を超えて、このドラマや、主題歌『ケセラセラ』のテーマが伝わるシーンでもあったと思います!
些細な誰かの優しさで
ちょっと和らいだりするんだよな(引用元:Uta-Net『ケセラセラ』Mrs. GREEN APPLE)(作詞作曲:大森元貴)
「ケセラセラ」の意味は?
ミセスの楽曲のタイトルにもなっている「ケセラセラ」は、どういった意味で使われているのでしょう?
困難に直面した時、どうなるかを心配して悲観するのではなく、「なるようになるさ」「なんとかなるさ」と、楽観的な姿勢でいること。
「ケセラセラ」は、未来の不安を軽減する・心を軽くしてくれる表現です。
スペイン語の「Que será, será」に由来していますが、文法的には正しいスペイン語ではなく、英語圏で作られた表現と言われます。



スペイン語では「Lo que será, será(なるようになるさ)」が一般的です。
この「ケセラセラ」という表現は、映画『知りすぎていた男』(1956年公開)の主題歌「Que Sera, Sera」で広まり、多くの人々に親しまれています。
「ツァラトゥストラ」って何?
ミセスの楽曲『ケセラセラ』の、とあるフレーズ。
ベイベー 大人になんかなるもんじゃないぞ ツァラトゥストラ
(引用元:Uta-Net『ケセラセラ』Mrs. GREEN APPLE)(作詞作曲:大森元貴)
この中にある「ツァラトゥストラ」について、解説します。
この歌詞は、ニーチェの著作『ツァラトゥストラはかく語りき』から
この「ツァラトゥストラ(Zarathustra) 」という言葉自体は、ゾロアスター教の開祖の名前である「ザラスシュトラ(ゾロアスター)」のドイツ語読みです。
しかし『ケセラセラ』の歌詞に登場したのは、ドイツの哲学者、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェの著作『ツァラトゥストラはかく語りき(ツァラトゥストラはこう語った)』から来ています。
ニーチェ『ツァラトゥストラはかく語りき』について
それでは、歌詞の「ツァラトゥストラ」の元になっている、ニーチェの著作を解説します。
『Also sprach Zarathustra』(原題)
『ツァラトゥストラはかく語りき』や『ツァラトゥストラ』とも訳されます。
全部で4部作。
著者:フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ (Friedrich Wilhelm Nietzsche)(1844年~1900年)
発行年:
第1部…1883年
第2部・第3部…1884年
第4部…1885年
ニーチェは、持病の発作や、失恋、家族との不和など、数々の苦悩を抱えていた頃に イタリアのラパッロに移り、滞在中に多くの創作活動を行いました。
『ツァラトゥストラはかく語りき』第1部は、わずか10日間で書き上げられたそうです。
このお話は、ニーチェの哲学を反映した「寓話(ぐうわ)」で、ニーチェの代表作となっています。
「ゾロアスター教開祖」のツァラトゥストラさんとは、全く関係ありません。
ニーチェは、物語の主人公であるツァラトゥストラの言葉を借りて、自身の哲学を伝え、読者に考えさせる内容となっています。
精神の3段階について
ニーチェは『ツァラトゥストラはかく語りき』の中で、自己実現の過程を「らくだ」「獅子」「幼い子ども」との3つの段階に例えています。
これはニーチェの比喩表現ですが、それぞれの意味を解説します。
- ラクダ…内面的な葛藤を抱えながらも、成長のための基盤を築く時期
- 獅子…既存の価値観や権威に従わず、自らの意志を主張、新しい価値を創造するための自由を手に入れる段階
- 幼い子ども…先入観無く、自由な発想で 新しい価値を創造することができる段階。幼子のように世界を楽しめる強み。
ニーチェ『ツァラトゥストラはかく語りき』の主なテーマ
ニーチェが『ツァラトゥストラはかく語りき』で伝えた哲学のうち、主要なテーマは、次の3つです。
(他にも、まだあります。)
- 神は死んだ
- 超人
- 永劫回帰(永遠回帰)
『ツァラトゥストラはかく語りき』の主なテーマ | 要約 |
---|---|
神は死んだ | 科学の発達により、神を前提とする世界観が崩れた。 |
超人 | 従来の「道徳」や価値観を超えた、新しい人間像。 価値に対して従属するのではなく、独自の価値を創造する存在。 自己を超越する能力を持ち、自らの限界を打破し続けることができる。未来に向かって進化し続ける存在。 |
永劫回帰(永遠回帰) | すべての出来事は無限に繰り返される、という概念。 人生を肯定的に受け入れるためには、この概念を理解し、受け入れることが重要。 「将来」「いつか逝くとき」のために、ではなく、今日という日を、未来永劫繰り返しても、肯定できるような生き方をする。 (※「何度も生まれ変わる」という「輪廻転生」の考え方ではなく、「今ここに」という考え方) |
『ケセラセラ』とニーチェの哲学との繋がりが面白い
さて、ここまで『ツァラトゥストラはかく語りき』について、サクッと見てきましたが、『ケセラセラ』の歌詞をニーチェの概念と繋げて読んでみるのも面白いと思います。
「ルサンチマン」と「超人」
ニーチェの哲学の中には「ルサンチマン」という概念があります。
「弱者」が「強者」に対して抱く「恨み」「嫉妬」「憎悪」といった感情を指します。
その劣等感をごまかすために、「強者」の自由な行動を非難し「欲望を抑える自己犠牲や、謙虚さこそが美徳だ」という「道徳」が作り出されている、と、ニーチェは分析しています。
ニーチェは、この「ルサンチマン」を克服して、自己実現を達成することが「超人」への道だといいます。
自己の欲望を直視することや、自己を高める努力をすることが大切だと、伝えています。
『ケセラセラ』の中には、こういう歌詞があります。
限界、上等。妬ましさも全部
(引用元:Uta-Net『ケセラセラ』Mrs. GREEN APPLE)(作詞作曲:大森元貴)
自分の「妬ましい」という感情を否定しないで良いんだよ、と語りかけてくれる歌詞です。
受け入れたうえで、「All right All right」と寄り添ってくれる部分が、心に響きます。



ニーチェも、嫉妬心そのものを否定しているのではなく、むしろ肯定的にとらえているからこその分析だと思います。
彼が批判しているのは「自己犠牲を美徳とする道徳観」。
他人の決めた「道徳観」なんかに囚われず、自分自身の経験に基づいて 価値を創造しよう、と言っています。
「永劫回帰(永遠回帰)」
『ケセラセラ』に限らず、ミセスの楽曲には「自分を愛そう」という表現がたくさん出てきますよね。
『ケセラセラ』にも、こんな歌詞があります。
私を愛せるのは私だけ。
生まれ変わるなら?「また私だね。」(引用元:Uta-Net『ケセラセラ』Mrs. GREEN APPLE)(作詞作曲:大森元貴)
自分のことを肯定してあげていいんだ…ここのフレーズに、いつも泣きそうになるのですが、
「生まれ変わるなら、また私に生まれたい」は、「輪廻転生」ではなく、ニーチェの言う「永劫回帰」にも繋がっていると思います。
永劫回帰は、すべての出来事が繰り返されるという考え方です。
私の人生のすべての瞬間、喜びや悲しみもすべてが繰り返されるとしたら…それでも、私は私の人生がいい、と思うだろう。
ニーチェは、過去や未来に囚われるのではなく「今この瞬間を大切にしよう」と説いています。
「生まれ変わるなら…」のフレーズは、ドラマ『日曜の夜ぐらいは…』のセリフにも!
そして『ケセラセラ』は、冒頭でお伝えしたように、大森さんが、ドラマの脚本から書き下ろした楽曲です。
ドラマ『日曜の夜ぐらいは…』の最終回、ラストシーンで、サチ(清野菜名さん)・若葉(生見愛瑠さん)・翔子(岸井ゆきのさん)・みね(岡山天音さん)のこんなセリフがあります。
「生まれ変わったとしても、私(僕)だね」



このシーンとセリフが『ケセラセラ』とも繋がって、良かったですよね。
このドラマも、様々な葛藤を抱えながら人生の選択をしていく 登場人物の生き方を通じて、視聴者にエールを送るお話しです。
3段階のうち、成熟した段階「幼い子ども」
さて、ここで『ケセラセラ』の「大人になんかなるもんじゃないぞ」に戻ります。
ベイベー 大人になんかなるもんじゃないぞ ツァラトゥストラ
(引用元:Uta-Net )(作詞作曲:大森元貴)
ニーチェ『ツァラトゥストラはかく語りき』の自己実現の3段階、
- らくだ
- 獅子
- 幼い子ども
を思い出していただければと思います。
その中の、1番成熟した段階の「幼い子ども」を指していると思われます。
幼子の境地で、自由な発想でいること。大人のように「既成概念に囚われる」段階になってしまわないこと。
子どものように、「世間の“常識”」なんて概念に振り回されず、自分の夢、やりたいことに素直に進むこと、やりたい学びをやること。
この大切さを歌詞に込めているように思います。
MVの世界観
MVの中で、人間の世界を望遠鏡でのぞいている「神様」は、大森元貴さんです。



この特殊メイクをするのに、なんと3時間かかるのだとか!
日常で踏ん張っている人たちの報われないシーン、歌詞にあるような、ちょっとした優しさやご褒美で、心の痛みが和らぐシーンにも、うるっとくるのですが、
それだけだと重いので、エンタメとして明るくなれる要素、圧倒的に乖離したファンタジーの世界も 入れ込もうということになったのだそうです。
神様も、積み木を積むのに苦労していたり、一生懸命に絵を描いてみたり。
望遠鏡でのぞいて見た人間の世界で、みんな頑張っているから、僕(神様)も頑張ってみようかな、とチャレンジしているようにも見えます。
ラストシーンの、神殿のような場所での世界観もとても美しく、楽しい雰囲気もまた 素敵なシーンでした。
(参考:Mrs. GREEN APPLE「Documentary — Special Episode “ケセラセラ”」)
『僕のこと』とニーチェの哲学
ミセスの楽曲『僕のこと』も、ニーチェの哲学と繋げて読むと、面白いです。



ニーチェの「神は死んだ」という言葉は、科学の発達により「神を前提とする世界観が崩れた」という比喩表現でした。
これはミセスの『僕のこと』の歌詞にも当てはめて 読むことも出来ます。
僕らは知っている
奇跡は死んでいる
努力も孤独も
報われないことがある(引用元:Uta-Net 『僕のこと』Mrs. GREEN APPLE)(作詞作曲:大森元貴)
というフレーズがあります。
「神は死んだ」が比喩だったように、『僕のこと』で歌っているのも
「奇跡」が「死んでいる」のではなく、



「奇跡」が勝手におきるのではなく、あなたが今日まで努力して積み重ねてきた「軌跡」があったからこそ、結果が出た(出る)のであって、それなしに「奇跡」は起きない
ということの比喩表現でもありますよね。
そして、このフレーズ…
ああ なんて素敵な日だ
幸せに悩める今日も
ボロボロになれている今日も(引用元:Uta-Net 『僕のこと』Mrs. GREEN APPLE)(作詞作曲:大森元貴)
自分の、全ての生涯を肯定してくれている このフレーズは、いつ聴いても涙があふれてきます。
ここも、ニーチェの「“永劫回帰”の概念から見てみることで、人生の様々な瞬間を肯定的に捉えることができる」という考え方と、繋がっているなぁ…と思いました。
大森元貴さんの哲学
…と、ここまでニーチェの哲学と繋げて、歌詞を読んでみました。
ですが、大森さんがつむぐ歌詞というものは、もちろん「大森さんの哲学」であり「ミセスが大切にしているもの」に他なりませんよね。
ニーチェの思想を参考にしたというわけではなく、大森さん自身から自然に生まれてきた言葉たちです。
(『ケセラセラ』の中にある「ツァラトゥストラ」のフレーズは、ニーチェから来ていると思いますが。)
それに、ニーチェ本人も



この世の中には、絶対的な真理や価値なんていうものは、無い。
と言っています。
ニーチェ自身の考え方も絶対ではないからね、ということですし、「他者の価値観に依存せずに、自分自身の価値観を持つことが重要だよ!」というのは他ならぬニーチェが説いていたことですよね。
ニーチェは、「先進的」だった?
ニーチェの考え方を、ここまで見てきて感じたことは、
- 「今ここに」意識を向けるマインドフルネスの考え方や、
- 「自己肯定感を高める」教育につながる考え方など、
2025年を生きる私たちの世界に浸透している概念に 似ているものがたくさんある、ということでした。
『ツァラトゥストラはかく語りき』を出版した当時は、全く売れなかったそうなのですが、ニーチェは 未来を予想していたようにも思えます。
ニーチェの人生は、苦労がたくさんあった?
ニーチェ自身、子ども時代に父親と弟を亡くし、妹エリーザベトとの仲違い、闘病、55歳で亡くなる…という苦難に満ちた人生を歩んできました。



妹のエリーザベトが ナチス党の支持者になってしまい、兄の死後に、兄の遺稿を恣意的に編纂、『力への意志』という書籍を出してしまいます。
ニーチェの意図に反する形で、ナチスによって「力」と「権力」を肯定する著作として、政治的目的に利用されてしまったこともあります。
しかし、ニーチェ自身は生前、反ユダヤ主義に強い嫌悪感を示していました。



このような恣意的な利用は、現代でも起きかねないので、
妹による「意図的な誤用」が政治利用された背景も知っておくことは、ニーチェ哲学を評価する上でも大事ですね。
このように、ニーチェの人生には多くの苦難がありましたが、彼の哲学の根底には「生の肯定」があったので、彼も彼自身の哲学に救われることがあったのではないでしょうか。



ニーチェさんにも『ケセラセラ』や『僕のこと』を聴いてほしいな。
それに、どうしても人は「苦難」に注目しがちですが、楽しいこともたくさんあったんですよね。
ちょっとニーチェの「軌跡」を読んでみただけでも、
詩や音楽を創って、それをお互いに評価しあうグループで活動したり、
ファンだったワーグナーと交流したり(のちに決別)、
24歳の時に、教員資格は無かったけれど、能力を見込まれて 大学で教鞭を取ったり…
著作がぜんぜん売れなかった頃にも、情熱的に 執筆活動を続けたということは、執筆・発信そのものは、やりがいがあって楽しかったんじゃないかな、と想像します。
同名の交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』について



もうひとつ、リヒャルト・シュトラウスが1896年に作曲した、同名の交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』も あります。
これは、ニーチェの著作にインスピレーションを得て作曲された交響詩です。



この交響詩は、9つのセクションに分かれています。
それぞれのセクションが、ニーチェの著作の章に基づいています。
冒頭の部分は、皆さん聴いたことがあると思います!
R.シュトラウス:ツァラトゥストラはかく語りき /カラヤン/ザルツブルグライブ
シュトラウスの交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』は、SF映画『2001年宇宙の旅』のメインテーマとなり、一躍有名となりました。
この映画では、クラシック音楽が多用されています。
交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』の導入部は、この映画の中で3度使われています。
- 映画のメイン・タイトル
- 「ヒトザル」が、モノリスという謎の物体からの知能教育により、動物の骨を道具や武器にすることに目覚めるシーン
- 人類を超越した存在に進化を遂げた「スターチャイルド」が地球を見下ろすラストシーン
【映画『2001年宇宙の旅』について】
原題『2001: A Space Odyssey』)
公開年:1968年
400万年前、ホモサピエンスの祖先であるヒトザルの進化は、宇宙からの謎の物体「モノリス」によって、もたらされ…。
壮大な空想科学サスペンスの中に、人類の発生起源、人類の進化、人工知能、終末論など、様々なテーマが詰まっています。



交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』は、ニーチェの哲学書に基づき「超人」や「進化」といったテーマが含まれています。
このことから、脚本・監督をつとめた スタンリー・キューブリックは、映画のテーマ(人類の進化・変革)にぴったりだと考え、この交響詩を 冒頭や重要なシーンに採用しました。
ミセス『ケセラセラ』音楽へのこだわりがすごかった!
ドラマ『日曜の夜ぐらいは…』は、それぞれの環境を抱えながら、日々めいっぱい耐えている人々の物語でした。
だから、「明日も頑張ろうよ」というのではなく、「なるようになるしかない」という言葉で この不運をなんとかやりすごそうとしている人たちの情緒、それを丁寧に表現されたそうです。
そのために、セクションによって、バックサウンドに変化をつけたといいます。
オーケストラのような祝祭感を出したり、一方では 静かに頭の中で鳴っているような感じにしたり…。
同じメロディと歌詞の箇所だとしても、違うバックサウンドを用いて、人の感情を丁寧に表現しています。
(参考:BARKS 2023.4.25/Mrs. GREEN APPLE「Documentary — Special Episode “ケセラセラ”」)
楽曲制作について、大森さんは、こうも話していました。
「今を頑張って生きる全ての人へのファンファーレの気持ちを込めました」
(引用元:BARKS 2023.4.25)



ファンファーレとは、特別なイベントを祝うために演奏される短い形式の音楽のことをいいます。
例えば、前述の シュトラウスの交響詩『ツァラトゥストラ』の冒頭、トランペットで吹かれる「ドー・ソー・高いドー♪ ミ・レ(の#)-♪」という部分も「ファンファーレ」です。
『ケセラセラ』のラストでは、音楽も盛り上がり、まるで「大事なことだから2回言うね」というように、「ファンファーレ」と、「大人になんかなるもんじゃないけど ケセラセラ」が出てきます。
ラストでは、多幸感のある歌い方を意識したとのこと。聴く人へ最大のエールを送っています。
バイバイ 無頓着な愛の日々
ファンファーレ 喜劇的な「つづきから」
ベイベー 大人になんかなるもんじゃないけど
ケセラセラ
バイバイ 空っぽ器にヒビ
ファンファーレ 明日も「つづきから」
ベイベー 大人になんかなるもんじゃないけど
ケセラセラ
なるようになるのさ
ケセラセラ(引用元:Uta-Net『ケセラセラ』Mrs. GREEN APPLE)(作詞作曲:大森元貴)
『ケセラセラ』では、いろんな人の気持ちを反映できるよう、自分を投影せず、フラットに歌おうと心掛けたという、大森さん。
「バイバイ 幼き愛の日々」と、「バイバイ 無頓着な愛の日々」のくだりでは、メロディは同じでも、その場面の心情を、違う歌い方で表現されています。
ギターもまた、ものすごい難関で、若井さんは、指先が絆創膏まみれになるぐらい、練習をしていたそうなんです。
水ぶくれを通り越して、指先が硬くなってしまうぐらいに…。
そんな中、大森さんが書いた『ケセラセラ』の歌詞に、若井さん自身が励まされたといいます。
その感覚をギターで表現されています。
藤澤さんは、夜寝る前のような空気感から、間奏後には次の日が始まるみたいな場面展開を、ピアノ演奏で表現。
ハープシコード(チェンバロ)を弾いていたのも、藤澤さんです。
ミセスの皆さん、本当にすごいですよね!
(参考:BARKS 2023.4.25)



それから、『ケセラセラ』の冒頭部分ですが、逆再生すると サビがゆっくりめに流れてきます!
まとめ
『ケセラセラ』の歌詞にある「ツァラトゥストラ」から ニーチェ哲学を、そしていくつかの「哲学」から ミセスの楽曲を繋げて、読んでみました。



ニーチェの哲学は、今もずっと「人生に大切なこと」を伝え続けていることが分かります。
そして改めて、ミセスの音楽の ミセスの哲学が、心に沁みました。
「自分を肯定してあげて」と優しく語りかけてくれる歌、つらい時に「がんばれ」ではなく、そっと寄り添ってくれる歌が多いですよね。
2025年1月5日放送の「さんま・玉緒のお年玉!あんたの夢をかなえたろか30周年SP」(TBS系列)で、ミセスと北海道・標茶町(しべちゃちょう)の子どもたちが一緒に、この『ケセラセラ』を歌いました。
番組に出たお子さん・「しべちゃ4人組」の凌冴くんが、柔道の試合の時、この曲に励まされてきたというエピソードもありましたね。
ミセスの楽曲は、人生の岐路で、大切なことを(説教くさくなく)伝えてくれる、
そして、つらい時に いつも人々の心を救ってくれている、そんな存在だと思いました。
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【考察】ミセスの楽曲『僕のこと』について(林修さんの考察も)




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